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三州志来因概覧
附録二
国府沿革并街巷来因 国府とは国都也、〈◯中略〉我金沢は北方にての雄都会也、〈日本諸候国府の盛なる、尾州の名護屋、奥州の仙台等の外、我金府の如き者、僅に三所に過ざる也、〉盛哉山海百爾の奇物、大氐具備せざることなし、蓋し古今国府沿革お論ずるに、加賀国太古は越前の属たるお以て、越前の国府〈今立郡、既今の府中の地也、〉より裁断処置おなす、故に加賀の国府なし、日本後紀お考るに、弘仁十四年、癸卯、加賀郡国府お去こと遠く、況や途路中に四大川〈按るに、越前の白鬼女川、鳴鹿川、加賀の大日川、手取川なるべし、〉有て、動もすれば鴻水渺漫、行客日お累ぬれども渉ること能はず、苦難に洎ぶお以て、太政官奏して越前属郡の内江沼加賀の二郡お割り、加賀州お新たに建置す、〈事詳加賀国郡郷来因〉是より能美郡に国府あること、和名抄に載す、然れば今の能美郡国府村辺、古の府治了然たり、即ち能美郡、今猶大領野大領村等の遺名あり、是古へ大領の住せし地なるべし、爾後正暦中、富樫忠頼加州永任の勅許お蒙り、家国〈利仁より七世也、宗助子、〉に至て館お石川郡高安荘〈世本之お高安庄野々市とす、又野々市お今は富樫庄内に隷す、並に誤也、◯中略〉野々市に造り、〈今野々市に御館と雲所あり、又御蔵の館とも呼、土人の口碑に、富樫泰高の館跡とす、景周(富田)按ずるに、長享二年、政親滅後泰高茲に移るならん、館跡家国以来富樫氏四百余年茲に居す、〉国政お治む、是れ野々市加州徙治の一変也、安元元年乙未、近藤師高加賀の守たるとき、其庁〈俗に雲評定所也、古へ一国一庁お置く、◯中略〉能美郡涌泉寺近くと源平盛衰記にあれば、此庁古の国府の地に拠たる成べし、〈◯中略〉政親亡滅の後、釈賊驕暴、御山城に拠て其城下お国府とす、是又国府の一変也、佐久間氏因襲して之に居す、我国祖〈◯前田利家〉も亦這地に拠て都城お奠め、国府万世隆盛の鴻基お開き玉ふ、