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三州志来因概覧
五加賀国郡郷来因
倭名抄に載する江沼郡管郷は〈◯中略〉九郷也、〈◯中略〉方今此郡に郷名なし、西の荘〈十六村〉の荘名あるのみなり、其他は北浜通、〈十八村〉山中谷通、〈十七村〉潟通〈十四村〉能美境通、〈十七村〉那谷谷通、〈二十二村〉四十九院通、〈十九村、此四十九院とは、古へありしこと也、〉奥山通〈二十一村〉と俗号お立て、一百四十有にの村落お八会(やくみ)に割り、〈今は保長五会に分〉各保長( /とむら)の部下とす、〈景周(富田)按、此西の庄内に、熊坂分七箇村あり、花房村、同出村、吉岡村、庄司谷村、石坂村、畑岡村、北原村是也、熊坂は中古の庄号たること著明也、東鑑の寿永三年四月に、加賀熊坂庄、八条院御領とあり、以て知べし、古郷の額田は、今の額見村辺ならん、上注に所謂中院領の頃は、之お額田庄と呼し成べし、又今潟通の内に、矢田村分九箇村あり、西泉村、原村、大野村、小島村、中村、豊野村、袖野村、稲手村、宮田村是也、或は之お矢田野領とも雲、按るに是古管郷の八田也、是も上注に所謂中院家領の頃は、之お八田庄と唱へし成べし、矢田野の字は助語にて、石川郡の野の市お、今野々市と書く類成べし、又山中谷通の内に山代村あり、是は古郷の山背ならん、光仁(光仁恐廃帝誤)紀にも、天平宝字六年四月、越前国江沼郡山背郷とあり、中古までも山代郷と雲こと、往々雑記中に見ゆ、富樫泰信此郷に拠て山代泰信と号す、富樫高家の弟也、又那谷谷通の内に、大菅波、小菅波の二村あり、是も古管郷の菅浪なるべし、されば這那谷谷通と雲は、古の菅浪郷成べし、此余は考撿なし、此郡にも中古の郷荘名有べけれども、失名可惜、〉能美郡、古管郷は〈◯中略〉五郷也、方今は徳橋、〈三十村、按るに古郷得橋の俗謬也、〉苗代、〈十六村〉板津(いたつ)、〈四十七村◯中略〉山上(のうへ)、〈六十四村、是古郷也、◯中略〉軽海、〈五十五村、古郷也、〉粟津、〈三十五村、内六村大聖寺領也、但今は此外に無家村おも加へ、五六の新村名あり、〉の六郷也、今此郡に荘名なし、〈平家物語、寿永二年、木曾義仲能美庄お菅生神社へ寄進とあるは、今の礪波郡の能美郷にては有まじ、此古郷の野身成べし、〉石川郡、古管郷は〈◯中略〉十二郷也、今方は中奥(なかおき)〈二十六村、或は作中興、按るに奥字おきと訓ずべし、◯中略〉豊田(とよた)、〈十二村、今作戸板者大謬也、古へ富樫氏の族豊田五郎光成、其子次郎光広等此郷に拠也、◯中略〉横江(よこえ)、〈十五村、源平盛衰記に、寿永二年、林光明金剣宮へ横江庄お寄附すとあり、〉〈是なるべし、◯中略〉米丸(よ子まる)、〈六村、三宮古記の康永中には、米丸保日御供田とあり、〉林〈十九村古郷の拝師也、(中略)三宮古記、徳治二年、上林郷、中林郷、下林郷と三郷に分出す、降て二百七八十年後、元亀天正の頃は、賊魁善四郎なる者、此三の林郷お押領して、自ら三林善四郎と称す、上林、中林、下林今は林郷内の村の名にあり、〉笠間、〈七村、古郷也、◯中略〉金浦(かなうら)、〈五村〉中村、〈二十六村、古郷名也、◯中略〉湯涌、〈十三村〉山島、〈三十五村〉の十郷也、此外に河内(かわち)、〈二十五村、愚按、河内庄は白山の河内河より出る名号かと思ひしに、三宮正和の初の記に、河内庄内野地住人藤四郎とあり、(中略)因之観之、五百年前より此庄名あること最明也、〉犀川、〈十八村、犀川は風土記に所謂中村河成べし、◯中略〉鞍月、〈十六村〉富樫、〈五十三村、蓋古郷也、富樫氏の先此に出るお以て姓となすなり、且富樫氏治世の時は、此庄お本庄と称す、◯中略〉押野(おしの)、〈三村◯中略〉石浦、〈五村◯中略〉大野、〈二十七村、按るに、此大野庄三代実録には加賀郡とし、倭名抄には石川郡とす、◯中略〉五箇〈五村〉の八荘あり、〈按るに、中古記録に、石川郡に高安庄あり、(野々市の辺)山崎庄あり、(小立野の辺)金沢庄あり、(金谷門より蓮池の辺)山内庄あり、(吉野辺)今皆此庄号なし、山内庄は、天文十三年六月五日、白山総長吏証辰法印へ賜る詔書に、山内庄尾副村とあり、又同十四年六月廿四日、将軍家の下書に、結城知行分山内総庄三組とあり、此二書の写、今下白山長吏の蔵也、然れば山内庄ありしこと古し、〉又此外に郷荘不詳の分あり、按ずるに、是平家物語に所謂蝶屋庄なるべし、〈本吉新村、手取新村、長屋村、西米光村、末正村、東米光村、手取村、流安田村、平加村、蓮池村、鹿島村、十一村、並に本吉浦、此分元郷庄しれず、今は是お長屋庄と強号す、景周按、長屋は蝶屋也、此長屋村も、古は蝶屋村と書たるなるべし、平家物語に、寿永二年五月廿一日源義仲多太八幡願書に、蝶屋荘十三町之処寄進とある、其地脈お察するに当れり、此事により、猶愚考、本記寿永二年実盛の注に弁ず、又三宮古記中には、之お朝屋に作る、されば五百年前後は朝屋と書ならん、蝶朝長音通ず、〉河北郡、古管郷は〈◯中略〉四郷也〈◯註略〉方今は、湯涌、〈十八村、此分石川郡の湯涌郷ともと一郷也、〉河村、〈九村〉英田(あかた)、〈二十村、蓋し是は古郷の英太なること明了也、富樫小次郎満家此郷に拠か、英田小次郎と号す、◯中略〉笠野〈一作笠非也、十七村、延喜式に笠野神社あり、〉金津〈二十四村〉の五郷也、此外に小坂(おさか)、〈二十三村、按るに正安元年三月亀山法皇以遠江初倉荘、加賀小坂荘、筑前宗像荘、寄附南禅寺、但後以播磨の野別名大塩荘、但馬池寺荘代小坂荘と、続本朝通鑑に見ゆ、◯中略〉金浦(かなうら)、〈十八村、一説に此庄お若松と雲、此説不詳、◯中略、〉井の上〈七十四村、(中略)此井上、石川郡古郷名の即ち井家也、◯中略〉金町五箇、〈五十五村〉鞍月、〈十三村、石川郡の鞍月ともと一庄なり、〉の五荘あり、〈此外に、河北郡に若松庄あり、石川郡に金沢庄あり、此二庄は全く金府内に止て、府外に与からず、故に此庄名今無とする説あれども、此二庄あること明了也、◯中略〉蓋し倭名抄に載する所は、古郷加賀国四郡の通三十郷也、方今は郷荘お併せて六十余号あり、〈此内湯涌一郷にして二郷、金浦鞍月一荘にして二庄、〉