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三州志来因概覧
附録二
国府沿革〈并〉街巷来因 金城は石川郡にあり、〈古記には石川郡山崎庄に在とす、然れども今此庄名なし、〉国府は石川河北二郡相半す、此内五庄二郷〈荘の弁在越中国郡郷来因〉接壌して、都下の全地おなす、所謂五荘とは、田井口、〈◯註略〉材木町金城際までお若松荘とす、石川郡に隷す、覚源寺より、〈◯註略〉新坂、〈◯註略〉大乗寺坂、〈◯註略〉長町堤町までお石浦荘とす、石川郡に隷す、安江町御坊町より街尾までお鞍月荘とす、〈一本に金浦荘に作る、然れどもあたらず、〉石川郡に隷す、河北門より浅野川に及ぶお小坂荘とす、〈◯註略〉石川郡に隷す、〈◯註略〉金谷門より蓮池亭辺お金沢荘(○○○)とす、〈或雲、方今石川河北二郡に金沢の庄名なし、疑くは金津庄の誤かとなり、景周按るに、此説非也、金津庄は宇気新村より内日角辺に在て、全く府内に与からず、金沢庄は全く府内に止て、府外に及ばず、是お以て見れば、金津金沢二荘あること明らかなり、若松庄も今河北郡の庄名になきは、是亦府内に全く止まれば也、〉石川郡に隷す、以上五荘也、所謂二郷とは、木町〈按るに木町、疑くは木倉町の誤か、〉用水より、古道までお豊田郷とす、〈豊田今誤て戸板とす〉石川郡に隷す、犀川の外泉野〈◯註略〉までお富樫郷とす、石川郡に隷す、〈今は富樫庄と唱ふれども富樫郷也、和名抄に出づ、〉以上二郷也、〈◯中略〉当城は金府の中央にあり、国卿大夫士諸臣の第宅、工賈商人の比屋列四、其区別は有といへども、大に其境界お隔てず、接壌隣並す、府内画地の制殆んど小江戸お為す、他邦播磨の姫路、尾張の名護屋、南越の福井、越後の高田等の、士商第四の地の大別あるの類に異也、按ずるに、天正十一年、国祖〈◯前田利家〉当城へ始封の比は、其街状今日に似者なし、農里の編戸の若しと、其余波今も枯木橋畔革工の徒住存す、