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三州志来因概覧
三能登国郡郷来因
我聖祖胙茅の後、寛永十一年甲戌閏七月、大猶大君〈◯徳川家光〉へ微妙公〈◯前田利常〉書上せらる封入目録には、能登国四郡、通計税額二十一万六千八百九十一石三斗五升四合、〈内千八百七十三石七斗五合寺社領〉闔田一万千百五十一町三反三畝十七歩、闔畑三千三百八町八畝二十一歩〈内四万千三十七石一斗四升四合荒川成〉総物成合て六万六千七石七斗三升七合〈内七百三石三斗四升寺社領〉とあり、此後寛文四年甲辰四月五日、大猶大君より松雲公〈◯前田綱紀〉へ改ため賜る公約封入税帖には、羽咋郡、百七十一村、〈今併支村、自領の分二百十一村也、但公私交会土方領と、交会の分も自領の村数へ入之、〉税額七万四千六百零三斛五斗九升、能登郡、百三十一村、〈今併支村自領の分、百五十六村也、土方領の事は、第十巻に別出して詳之、〉税額六万二千九百三十五斛二斗五升、鳳至郡、二百二十七村〈今併支村、自領の分三百令四村也、〉税額四万七千九百八十一斛五斗六升、珠洲郡、七十四村、〈今併支村百十一村也、以上自領の分、四郡の通、今八百四十五村也、但高辻帳表は六百三村也、〉税額二万五千九百十二斛四斗四升也、公邑お除き、四郡税額の通計二十万六千三百八十二斛八斗四升、但五千五十斛は税籍の外薀額也、〈正徳元年官に出る高辻帳の面、村高石高之と同数也、〉当時郷村高辻帳表は、〈高辻帳は、本封のみお挙げ、夫に封内の禄額お割当る者にて、実数には非ず、故に村数も本数より寡し、高辻帳の官へ出る最始は、正保三年也、此時三州輿地図も副上也、其後は寛文四年、貞享元年、元禄十五年、此時又三州地図副上也、正徳元年、享保三年、延享三年、宝暦十年、天明七年、以上九度也、〉羽咋百七十村にして、七万四千九百十四斛二升一合、鹿島百二十五村にして、六万二千六百十六斛九升、鳳至二百二十七村にして、四万七千九百八十一斛五斗六升、珠洲七十四村にして、二万五千九百十二斛四斗四升、〈以上四郡の公料、土方領、交会の弁は、附録官田部に詳也、〉四郡の通計五百九十六村にして、〈今存する四郡自領実数は七百八十一村也、之に公料土方領お併せ、総計八四百十二村也、〉廿一万千四百二十四斛一斗一升一合、内賜文押字挙目額二十万六千三百八十二斛八斗四升、籍外薀額五千四十一斛二斗七升一合也、是即天明七年丁未、官へ書出る村数斛員也、開墾額は五万九千七百八十斛三斗一升四合二勺、是は天明六年易邑後改り、翌七年官へ書出る数にて、正徳元年書出る開墾額とは、百三十九斛三斗八升四合二勺の過数あり、当時も猶同然也、〈貞享元年の高辻には、官へ書出る新田額四万五千五百零二石七斗なり、然るに貞額享元年以後是に又新開額一万四千百三十八石二斗三升お増加し、正徳元年書出る二新田、都合五万九千六百四十斛九斗三升なり、〉