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日本地誌提要
四十越中
沿革 古へ国府お射水郡に置、〈今新湊町、旧古府村と雲、〉北条氏の末、名越(なごや)時有お守護とす、元弘三年、王師興り、時有誅に伏し、建武中興少将中院(なかのいん)定清お以て国司に任ず、明年時有の子時兼、乱お州内に作す、朝廷桃井直常おして伐て之お平らげ、因て守護お賜ふ、足利尊氏の反する、州人普門利清之に応ず、定清之お伐て戦没す、既にして直常叛て尊氏に附し、正平五年、再び吉野に帰順す、尊氏乃ち足利高経お守護とし、子義将職お襲ぎ、直常お伐て之お破る、天授六年、将軍義満、管領畠山基国に本州お賜ひ、長子満家に伝へ、管領お世襲して京師に在り、再伝して政長に至る、明応二年、政長同族義豊と戦て敗死し、州の豪族、椎名〈勝胤〉神保、〈忠氏〉鈴木、〈国重〉等、相謀て上杉顕定の麾下に隷せんと乞ふ、明年、顕定其弟越後守護房能おして州事お兼摂せしむ、永正三年、房能其臣長尾為景え殺せられ、七年、顕定、為景お伐て敗死し、椎名神保諸氏各其地に割拠し、皆為景と絶す、天文七年、為景大挙来り侵し、松倉、〈椎名泰胤〉滝山、増山〈皆神保氏〉諸城お陥れ、其地お掠有す、十一年、神保良衡、江波三河等為景お誘殺す、神保氏純〈忠氏の子〉富山城に拠て、新川婦負二郡お併せ、声威頗振ひ、永禄の初、礪波郡お併せ、椎名石黒諸氏お降す、為景の子輝虎、報仇お図り、屡来り攻む、六年、大挙して入侵し、良衡三河お殺し、数城お徇ふ、元亀二年、輝虎松倉城お陥れ、椎名泰胤お滅し、神保氏張(はる)〈氏純の嗣〉お富山に囲み、明年之お抜き州の大半お略す、氏張走て守山〈射水郡〉お保ち、款お織田信長に納る、六年、輝虎卒し、内訌大に起り、州豪皆離畔し、志お信長に通ず、七年、信長、佐々成政に全州お賜ひ、富山に治す、十三年、豊臣氏成政の地お削て、新川一郡に食しめ、礪波射水婦負三郡お以て前田利長に与へ、守山に治す、十五年成政お肥後に徙し文禄四年、新川郡お以て利良の父利家に加賜す、慶長の初、利長徙て富山に治す、尋て父の封お継ぎ、加賀に移り、本州お兼領し、世襲す、其支封お富山とす、〈利常の第二子利次〉王政革新、廃して県とす、既にして改て新川県お置、〈初魚津に置き後富山に徙す、〉