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三州志来因概覧
一越中国郡郷来因
礪波の二字、正名也、続日本紀に、天平十九年、越中国人無位礪波臣お載す、可以知延喜式、和名抄にも、礪波に作る、古事記万葉には利波に作る、東鑑には砥波に作る、按万葉、夜岐多知乎(やきたちお)、刀奈美能勢伎(となみのせき)と詠ずれば礪波、利波、並に字縁ありて協へり、〈◯中略〉然るに野史或は戸波、戸並等書し、謬来也、〈当時博学と称する京儒皆川文蔵など、人の瑕お指摘すれども、源義仲紀事中に礪並と言て印行す、是れ国史に暗ければ也、日本史も作礪並、誤なり、〉故お以てか寛文十一年五月四日、松雲公〈◯前田綱紀〉命じて礪波の正字に改復せらる、