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三州志来因概覧
一越中国郡郷来因
倭名抄に載する礪波郡管郷は、〈◯中略〉十郷也、〈◯註略〉方今は、太(た/ふと)美(み)〈十六村〉蟹谷(かにだ)、〈廿九村◯中略〉院林(いんばやし)、〈四村〉槃若(にや)〈六十七村、(中略)此郷名盛衰記、東鑑に見ゆれば、不古郷名ども、其来こと久し、古に雲槃若野は、今の槃若郷にて、南は三谷村より、北は春日吉江村徳市村に至て、射水郡お限り、西は大抵庄河お限り、東は別所市の谷山お限り、婦負郡の山に隣る、礪波の東山と庄河との間お、野下、野中と雲、今は聚落となり、槃若郷名あり、◯中略〉井口(いのくち)〈十一村◯中略〉国吉(くによし)、〈十三村〉山見(やまみ)、〈二十九村、山斐正字也、今作山見誤れり、◯中略〉若林、〈十八村〉広瀬、〈十一村〉和沢(わざわ)、〈十三村〉油田(あぶらでん)、〈十一村〉福田(ふくた)、〈八村、◯中略〉石黒、〈二十四村◯中略〉、能美(のうみ)、〈十村〉高瀬、〈十二村、今高瀬村に高瀬神社あり、式内神也、(中略)按るに、此郷名此神号に因て起るか、〉荘下(しやうげ)、〈四十五村〉松永、〈十村、盛衰記、寿永二年、倶利伽羅の役に此地名見ゆ、〉吉江(よしえ)、〈十一村〉宮島、〈四十七村〉野尻〈四十九村、◯中略〉是戸(これと)、〈七村〉山田、〈四十七村〉糸岡、〈三十村〉正戸(まさと)、〈二村〉の二十四郷也、〈按ずるに、此外此郡に埴生郷、続太平記に見ゆ、今の埴生辺ならん、又桜井郷あり、三日市辺と混目集に見ゆ、続通鑑に、佐野常世に北条時頼越中の桜井邑お賜るとあるも此郷か、〉此外に五箇山、〈七十村、五箇とは、赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀(とか)谷、此五谷お以て配村お統ぶ、〉五位荘あり、〈五十五村、義経記に、義経黒坂口の麓お五位庄へかヽり、六道寺渡お踰とあり、◯中略〉射水郡、古管郷は、〈◯中略〉十郷也、〈◯註略〉今は東条、〈三十一村、東鑑に越中国東条保とある是也、◯中略〉浅井、〈七村〉の二郷也、此外に倉垣、〈三十八村、是もと婦負郡の倉垣と同庄、〉大袋、〈三十二村〉法内、〈八村〉半村、〈八村〉二上(ふたかみ)、〈六十七村◯中略〉上(かみ)荘、〈二十四村◯中略〉阿努(あぬ)、〈十四村、蓋し古郷名也、〉八代(やしろ)〈三十村、東鑑には八代保とあり、◯中略、〉の八荘、〈今氷見荘と唱る所あり、◯中略〉曁び下西(しもさい)条、〈二上庄内也二十村、〉南条〈三十七村〉の二保あり、〈(中略)按るに、此二保の外射水郡に河口保、曾禰保、東鑑に見ゆ、河口は古管郷の河口成べし、〉婦負郡、古管郷は、〈◯中略〉十郷也、〈◯註略〉方今は万見、〈十九村〉長沢、〈二十一村、此郷へ寒江庄の牧村の支村花木入加り、合て今廿二村也、按るに建武二年、守護普門蔵人利清、井口、野尻、長沢、波多野の郷兵お以て官軍に倍くことあり、是にて見れば、長沢の号も其来ること久し、〉為成、〈楡原保内也、八村、〉山田、〈三十村〉宮川、〈十二村、但此内へ為成郷の蔵島支村添島、板倉新の二邑入加り、合て十二村也、是もと新川郡の宮川と一郷也、〉田中、〈二十二村、但此郷内へ楡原保の上井沢の支村熊野道、曁び足谷の支村の天池入加り、今合て二十四村なり、〉六郷、此外倉垣、〈四村、但此庄中へ万見郷の山岸の支村百塚、新寒江庄の中沖の支村利波新入加り、今合て十村也、此倉垣もと射水郡の倉垣と一庄、〉寒江(さぶえ)、〈八村、但此庄内へ長沢郷の五福の支村峠茶屋入加り、合て今十村也、〉奥田、〈一村、但新川郡の奥田ともと一庄、〉の三庄、楡原(にれはら)保、〈六十一村、但此保内へ為成郷の袋の支村麦島、田中郷の柚木の支村追分茶屋、并高瀬以上三村入加り、合て今六十四村なり、〉あり、〈◯註略〉新川郡、古管郷は、〈◯中略〉十郷也、〈◯註略〉方今は上条、〈三十八村〉山室、〈二十五村内二村富山領、公文名一村は金沢富山交会、〉池田、〈九村〉大三位、〈二十五村〉飯野、〈十村〉寺田、〈十五村〉島、〈十八村古郷名、〉下条、〈二十一村〉下山、〈十五村〉市田、〈七村、◯中略〉長榎(なかえのき)、〈六村〉高野、〈六十村〉船倉、〈一作船倉寺、十六村、◯中略〉三室、〈大田保内也、六村、内三村富山嶺、但又此内荒屋村は金沢富山二領来会、〉針原、〈二十村〉広田、〈二十五村、内二十三村は富山領、広田中島、上赤江の二村は金沢富山交会、東鑑文治六年四月十九日、内宮役夫大工作料未済成敗の条に、越中国に弘田御厨同加納あり、広田は此弘田成べし、〉八(や)川、〈大田保内也、十一村、内二村富山領、〉入部、〈十五村〉三位、〈六十村〉加積(かすみ)、〈百九十一村、三代実録、貞観十五年癸巳十二月、授越中国賀積神並従五位下とあり、然れば加積は賀積成べし、〉入膳、〈十四村◯中略〉熊野、〈大田庄内也九村皆富山領、〉蜷(みな)川、〈大田庄内也、三村富山領、按るに蜷川新右衛門親当嘗て此郷お領す、◯中略〉宮川、〈二十七村、皆富山領也、此郷中へ蜷川郷の最勝寺の支村島田、及び熊野郷の上熊野の支村合田入加り、合て今廿三村也、是もと婦負郡の宮川と一郷にて二郡に渉る、〉の二十四郷、此外に大田、〈百二村内四十九村富山領、但し此富山領中へ八川郷の南八川の支村稲野、并馬瀬口の支村大場新、宮川郷の轡田の支村和田、下板倉、奥田庄の稲荷の支村東田地方入加り、此分五村、合て今五十四村也、されば金沢富山両領合て今八十九村也、又此庄内の大田、本江、黒牧、文殊寺、大溝呂木、福沢、布目の六村は金沢富山両領の交会也、◯中略〉弓、〈四十八村◯中略〉末(すへ)、〈三十四村〉五箇、〈十六村〉奥田、〈十一村、皆富山領也、是もと婦負郡の奥田と一庄〉の五荘、曁び大布施保、〈二十九村〉布施保、〈四十八村、式の駅馬に布勢とある是也、又式の新川郡に、有布勢神社、然れば此郷名神名に依ならん、◯中略〉藤保、〈二十三村〉の三保あり、〈按るに、此外此郡に、吉田庄、東鑑に見へ、松倉郷続太平記に見ゆ、〉以上四郡の通、古郷は四十有二、中古以来は郷荘保等併せて七十有九也、今お以て古に比するに良(やヽ)一倍す、況や村数おや、