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佐渡志
一田土
天正十七年己丑、上杉家こヽお併せ領せしより、幾苅といふおもて称せしと見えて、其年霜月、黒金尚信が波太郎熊野の祠官にあたへし状お初として、〈熊野祠の条に出せり〉悉くしかり、百苅といふは、京升にて八斗四升なりといへり、〈古文書〉 慶長三年戊戌、上杉家所領お奥の会津に移されて、此国豊臣家にまいらせし後も、租税のことヾも旧きに依しとぞ見ゆ、〈◯中略〉 同じき六年辛丑、関東の御料に併せられて、万制度も立たれど、いまだ撿地などいふ事にも及ばず、隻幾千幾百苅お何石何斗の称に改めたるまでにありけむ、其後元和三年丁巳、国中屋敷撿地あり、近世までも此国と隠岐とは、田租のみありて、甫の租税はなかりしといふ説あり、〈田園類説〉此近世といへるは、いつの頃おさすにや詳ならず、元和七年辛酉の収納お記せるに、米弐万千三百五十八石四斗三升八合のうち、千五百拾石一斗六升は永引と雲ものにて、残る弐万八百四十八石弐斗七升八合お定納とす、此外銀納ありしといへども、いくばくにや記せしものなし、後慶安のころ新田年々に開け、元禄改元に及で、収納の米弐万四千三百弐拾九石五斗五合八勺の内、千弐百九拾七石弐升七合弐勺は永引、残る弐万三千三拾弐石四斗七升八合六勺、此外に山役米といふもの八拾八石弐斗弐升七合、及び地子と雲もの弐千六拾壱石四斗九升四合八勺の内百拾八石四斗七升壱合五勺は永引にて、残る千九百四拾三石二升三合三勺おば銀にかへて納むといへり、同き六年癸酉、国司荻原重秀うけたまはりて一国撿地あり、其事にあづかれるもの甚多く、内藤兵右衛門山田与次兵衛といふものこれお総ぶ、翌七年甲戍、其功お終へて、田六千三百九拾三町四段五畝弐拾五歩、甫三千四百拾三丁七段弐拾九歩、総て九千八百七町壱段六畝弐拾四歩、糧額拾三万三百五拾五石九斗八合となれり、委しくは官の簿籍に載せられたれば、こヽに出さず、是より後開墾したるおば皆新田と唱ふるなり、今国中の田甫の広狭左の如し、 雑太郎〈◯中略〉 以上百壱け村、田三千三拾壱町四段余、甫千四百七拾九町六段余、糧額六万三千弐百六石三斗壱合、 加茂郡〈◯中略〉 以上百三け村、田弐千五百四町余、甫千三百拾町壱段余、糧額四万七千四百六拾七石壱斗弐升、羽茂郡〈◯中略〉 以上六拾ヶ村、田八百七拾八町九段余、甫千八拾九町九段余、糧額弐万千七百拾弐石七斗九升七合、 三郡弐百六拾四村、通計田六千四百拾四町四段余、甫三千八百七拾九町八段余、糧額拾三万弐千三百八拾六石弐斗壱升八合、