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佐渡志
二戸口
総て国の盛衰おはかり知るは、目のあたり民の聚散お見るにしくはなし、古へのとき、戸口の籍お重ぜられしも、〈令義解〉恐らくはこれがためにぞ有べき、此邦の戸口、天正より前はいかにやありけむ、いひもつたへず、越後の上杉地頭おほろぼしてのち、戸数わづかに一万にみたず、国のうち荒野のみ多かりしといへり、関東の政となりし初め、金銀山の盛んなるにつきて、国国より人多く来りあつまりぬる、〈武徳編年集成〉それより元和の頃まで戸数は知れず、口数は既に二十万に余りき、〈官庫文書〉寛永の末、正保の初めよりして漸々減じ、慶安明暦に至て、益減ぜしよしお語伝へたれど、簿籍皆焼失せたれば、委しくは知がたし、されど今より考るに、啻に相川市中に人の多かりしのみならず、郷村にもまた家居多かりけるにや、農家の廃跡とて官籍に載せられし所、今も猶四百戸に余れり、これお方言に伏せ棟と唱る也、寛保このかたは明らかに記せし者あれば、採てこヽに出せり、 寛保元年辛酉 戸壱万九千百弐拾六 口九万三千三百九拾四 〈男四万八千百五拾七 女四万五千弐百三十七◯中略〉 文化十二年乙亥 戸壱万九千五百拾六 口拾万六拾壱 〈男五万八百七拾五 女四万九千百八拾六〉