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因幡民談

因幡国郡郷村里広狭路程等事 一当国郡名古書において明にこれお記しおけり、然るに今国中に言伝るは、様々に言ちがへ、文字おも書ちがへ、古書の趣に違ふことおほし、巨濃郡おば今岩井郡と雲、八上の一郡お二郡となし、八上八東と雲、邑美郡お上美郡と雲、巨濃郡お岩井と雲は、郡の内本庄河崎辺お岩井の庄とみへたり、其辺に岩井の水と雲所もあり、古き感状等にも、此辺の軍に岩井表の合戦とあり、しかればこの辺お岩井と雲こと紛なし、然るに近代いつの程にか此郡の総名とし、終に巨濃の名おばうしなへり、それに近き比は郡の内殊に湯村おさして岩井とのみ雲やうにみへたり、誤の内の誤也、八上お分二郡となすこと昔の法とはみへず、いつの比より分来と雲こと明に考がたし、郡の内新興寺につたはる古き記文の内に八東川と雲ことあり、しかればその比より若桜口おば八東とは雲とみへたり、然ども郡の名とすること古書にて未みず、上美郡是は国民辺鄙の語音にてあふみと雲べきおわあみと雲、その語音おうけ、文字にうつし、如此かき違ゆるとみへたり、又拾芥抄の説に、因幡国〈上近〉七郡、法味〈府〉邑美、八束、八上、知頭、高草、気多、或本八郡、巨濃、石井、除八束〈田八千十六町〉とあり、和名抄の趣には違たる事おヽし、法美お法味とし、巨濃おば不入、八束お加たり、八束お八束と書ること束字いかなるぎ共会通しがたし、八東とは八上郡国中にて大なる郡故二つに分、一郡は本名お用、一郡は八上の東郡とのぎにて、かく名るとみへたり、しかれば束字必定東の字の誤書とみへたり、又或本の義お挙八郡とし、巨濃石井お入、八束お除けり、巨濃石井は一郡なるお、二郡の如く用入たること、大なる差誤也、田の数も和名抄とは少不同あり、此拾芥抄説錯乱謬妄信ずるに足ず、しかるに寛文年、江都政事府より当国郡名古代の誤お正し、岩井お石井とし、上美お邑美とし、八東お八束となすべき由下知せらるるにより、国中今是お用らる、考ふるに拾芥抄の説お用らるヽとみへたり、八束の字別有一義歟、難心得事也、又当国にて土民の伝説に、高草郡昔は野方の郡と雲けるに、円融院御宇松上神霊天台座主某当国に下り現人神となり、松上山に栖、事々布祟おなされしかば、郡中に栖者なく、草のみ生茂ける故高草郡と雲といへり、されど円融以前の書に高草の名記しあれば、慥に附会の説とみへたり、訛謬用にたらず、但此郡の郷名ども皆野の字おつけて呼べば、さもあらんか、〈◯下略〉