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日本地誌提要
四十八出雲
沿革 古へ国府お意宇郡に置、〈今の下出(しもあ)雲郷(だかえ)町〉建久中、源頼朝、佐々木義清お以て守護とし、子孫職お襲ぎ、世神門郡塩冶郷に居る、其孫頼泰始て塩冶氏と称す、建武中興、頼泰の孫高貞、守護お襲ぐ故の如し、後叛して足利尊氏に属す、延元三年、讒に罹て自殺し塩冶氏亡ぶ、〈義清より五世〉尊氏、佐々木高氏おして守護お兼しむ、正平中、山名時氏、高氏に憾あり、終に其地お掠奪して吉野に帰順し、復畔て足利義詮に降り、因て守護お領し、伝へて孫満幸に至り、元中の末、罪ありて守護お奪はれ、尋て誅死す、将軍義満、再び高氏の孫高詮おして之お兼領せしめ、孫持清に至り、従父尼子持久お守護代となし、富田〈能義郡広瀬の南に城止あり〉に鎮せしむ、其孫経久に至り職お罷め、塩冶掃部之に代る、文明十七年、経久兵お挙げ、塩冶お逐て富田に拠り、自立して守護と称し、終に伯耆隠岐お併せ、石見、備中、備後、安芸お蚕食す、孫晴久、毛利元就と石見お争ひ、兵連て解せず、永禄三年、元就大挙して富田お攻む、五年、晴久卒して子義久嗣ぎ、僅に富田一城お保つ、九年、義久出て降り、尼子氏亡び、〈三世凡八十二年〉其地皆毛利氏に帰す、天正十九年、豊臣氏、元就の孫輝元に命じて半州お割き、吉川広家に畀へ、富田城に居る、関原役畢り、徳川氏本州お削奪し、〈広家徙て周防岩国に居る〉堀尾吉晴お封じ、松江に治す、〈島根郡末次、意宇郡白潟お改称す、〉寛永十一年、孫忠晴卒し、子なくして国除し、明年、京極忠高代りて封ぜられ、十四年、亦嗣なくして封絶え、十五年、松平直政お封じ、世襲、其支封お広瀬〈直政第二子近栄〉母里〈直政第三子隆政〉となす、凡三藩、王政革新、改て県となし、尋て合併し、島根県お更置す、