[p.0503][p.0504]
日本地誌提要
五十隠岐
沿革 古へ国府お周吉郡に置、〈府止八尾村の西にあり〉建久四年、源頼朝全島お以て佐佐木定綱に授く尋て其弟義清おして、出雲守護お以て兼領せしむ、承久三年、後鳥羽法皇、北条義時お討じて克たず、義時、法皇お島前海士郡〈海士村森里〉に遷し、後十八年にして崩ず、元弘二年、北条高時、後醍醐天皇お知夫郡別府村〈或は同郡知夫湊、亦皇居の止ありと雲、〉に遷し、義清の玄孫清高おして之お監護せしむ、明年、天皇伯耆に遷幸し、王師四起し、北条氏亡び、出雲守護塩冶高貞おして守護お兼子しむ、高貞讒死の後、足利尊氏之お佐々木高氏に加賜す、正平中、山名時氏全島お略取し、之お其孫氏之に伝ふ、元中七年、将軍義満、氏之の封お収め、其弟満幸に授く、既にして義満、満幸お誅し、再び之お高氏の孫高詮に賜ふ、高詮、島の豪族隠岐氏〈義清の裔孫〉お以て守護代とし、周吉郡宮田に居らしむ、大永天文の際、同族島前島後に分拠して闘争やまず、隠岐清政、甲尾(かふのお)〈古府の別称〉に城き、援お尼子経久に乞て島内お平定し、終に其麾下に属す、孫為清に至て尼子氏亡び、毛利元就に附す、永禄の末、尼子勝久恢復お図り、故党お募る、為清之に応じ、兵敗れて自殺し、其弟清家代り立つ、天正十年、従子経清に殺せらる、毛利氏の兵来り伐ち、経清お誅し、戍お八尾に置き、後吉川広家お分封す、関原役畢り、徳川氏、広家の封お収め、堀尾吉晴に加賜す、孫忠晴卒して封絶ゆ、京極忠高之に代り、嗣なく国除し、松平直政に命じて、島事お管摂せしむ、王政革新、鳥取藩おして之お管せしめ、尋て隠岐県お置、既にして廃して大森県に併せ、更に島根県に併せ、又改て鳥取県より兼治す、