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日本地誌提要
五十二美作
沿革 和銅六年、備前六郡〈英田、勝田、苫田、久米、大庭、真島、〉お割き、本州お置き、国府お苫田郡に定む、〈今西北条郡小原村総社村、其遺止なり〉鎌府の初、土肥実平、梶原景時おして守護たらしむ、足利尊氏の反する、之お赤松則祐に与ふ、正平十六年、山名時氏、南朝に帰順し、大挙して来攻め、諸城お抜き、悉く全州お併す、既にして足利義詮に降り、因て守護となり、子氏清に伝ふ、元中八年、氏清誅に伏し、将軍義満再び則祐の子義則お以て守護となす、義則の子満祐誅せられ、山名持豊の弟熙高、代て守護となる、文明の初、州内擾乱、赤松政則隙に乗じて来襲ひ、遂に之お取る、子義村、其臣浦上村宗に殺せられ、村宗後藤氏〈美作守〉と各半州に拠る、天正の初、浦上の家臣宇喜多直家、後藤勝基お誘殺し、尽く全州お奪ふ、関原の役、宇喜多氏亡び、徳川氏、小早川秀秋に加賜す、秀秋卒し、森忠政代り封ぜられ、〈拾八万石〉津山に治す、元禄中、国除し、松平宣富お津山に封ず、〈拾万石〉寳暦中、三浦明次、勝山に封ぜられ、〈後真島と改む〉共に二藩、慶応三年、松平武聡、石見の浜田より鶴田(たづた)〈久米北条郡和田南村〉に徙り、三藩となる、王政革新、皆改て県となし、又廃して北条県お置、