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芸藩通志
三備後
国名考 吉備の国名は旧事紀に始て見えたり、曰生吉備児島、その吉備と名ける義考ふべからず、或曰、其土黍稷お種るによし、黍の訓吉備なる故なりと、又此国お備前備中備後と分けられしことお按るに、安閑天皇本紀に、既に備後国後城屯倉と出、又和銅元年、佐伯宿禰麻呂お備後守とすとあり、前中後三に分けられしこと、いづれの代なりや知るべからず、或人国名考お著し、総国風土記お引て、曰宝亀辛亥、勅して両国に分ち、霊亀乙卯に分て三国とすと、此説拠おしらず、且実亀霊亀の次第さへ既に差へり、備後お万葉集には路後(みちのしり)に作り、和名抄には吉備乃美知之利と訓ぜり、吉備の字或は寸簸(きび)、岐備(きび)、黄薇(きび)、黄備(きび)など作る、備後お武備志日本考には、避臥(ひくは)に作る、西人の誤聞なるべし、