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芸藩通志
三備後
郡邑建置沿革考 備後国上古郡お分つの制いまだ詳ならず、按に続日本紀、和銅二年冬十月庚寅、備後国葦田郡甲努村相去郡家、山谷阻遠、百姓往還煩費太多、仍割品遅郡三里隷葦田郡甲努村、この時いまだ甲努郡お置かれざるに似たり、然るに日本後紀延暦廿四年奏書に、既に甲努郡の名あれば、史に明文はなしといへども、和銅延暦の間と見ゆ、又は和銅二年品遅郡お割き、葦田郡甲努村に隷すると雲は即別郡として、甲努郡と呼けるやも知べからず、又続日本紀養老五年夏四月丙申、分備後国安那郡置深津郡、とあり、和名抄所載十四郡、〈◯中略〉今に至かくのごとし、拾芥抄には別に吉刀郡お加へて十五郡とす、いまだ何の拠お知らず、今時御調、甲奴、世羅、三谿、奴可、三上、三次、恵蘇の八郡、本藩に属し、その余六郡は、福山及び中津領も交れり、又甲奴郡も八村当領にて、其余は公邑と中津領也、