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芸藩通志
百二備後国甲奴郡
疆域形勢〈風気附〉 甲奴郡は元明天皇の御宇より置かれしと見ゆ、按に続日本紀に、和銅二年冬十月庚寅、備後国蘆田郡甲努村、相去郡家、山谷阻遠、百姓往還、煩費大多、仍割品遅郡三里、隷蘆田郡甲努村とあり、異本に末の甲努村の上に建郡於の三字あり、類聚三代格、三代実録、並に甲努に作り、〈今或は努の字お用ふ〉倭名抄甲努に作り、加不乃と訓ぜり、されば今もかふのといふべし、奴は古は野の訓にも用ゆ、三次郡布努お布野とよむ類なり、甲努の名考ふべからず、神野、河野などの義にてもあらんか、今の藩府広島の東廿一里にありて、全郡は他領入交りて、藩の所管は広一里余、東は稲草村割岩より、西は木屋村枯木に至る、袤五里、南は矢野村伊尾村越より、北は稲木村一の渡に至る、五里の内にも、又他領二里許も入交れり、管内四隣、東は郡内にて公邑、また中津領の村なり、南より、西は世羅郡、西は三谿郡、北は三上郡なり、稲草村お郡本とす、〈◯下略〉