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芸藩通志
百二十八備後国三次郡
疆域形勢〈風気附〉 三次郡は、備後国の極西にて、今の藩府広島の東北十七里にあり、三次美与之と訓ず、倭名抄に見ゆ、同じ抄当郡の郷名、上次、播沢、下次とあり、此三次お以て郡名とせられしなるべし、但次およしと訓ずる義、いまだ詳ならず、按に次は日本紀に須岐とよめり、阿波国に三次郷あり、倭名抄美須木と訓ぜり、次はやどるの義にて、古やどるおすきといへり、薩摩国に揖宿郡あり、倭名抄以夫須木と訓ぜり、されば三次は三宿の義にて、三夜須木といふべきお、須木の反、しなれば三よしと呼ばれしにや、今当郡に畠敷といふ村あり、中古、八次、幡次などヽ書たることもありたりといふ、倭名抄にいへる、播次の転訛にて、今も古名の遺れる考ふべし、されば上次はかみすき、下次はしもすきといひたるなるべければ、三次お合せて阿波のごとく三すきといふべきお、此国にみつき郡といふもあれば、まざらはしき故、となへお変られたるにや、拾芥抄には三茨とあり、こは字の誤なるべし、中古三吉に作りしは、訓にて通用せしと見ゆ、広凡四里半、東は東入君村より、西は伊賀和志村に至る、袤凡六里、南は大力谷村より、北は櫃田村に至る、四隣、東は恵蘇郡、南は世羅、三谿二郡及び安芸国、豊田高田二郡、西は石見国邑智郡、北は出雲国、飯石郡なり、当郡古は王邑たること、諸郡に同じ、中古以来、三吉氏の所領となる、世々畠敷村に城居す、後上里村、寺戸、又比熊山に移る、慶長の頃は、福島氏の封疆となりて、其重臣お置て守らしめたり、我藩第三世君芸備に封ぜられ給ふの後、庶子長治君お三次恵蘇二郡、五万石に分封なされ、上里村比熊山の下に府第お置き、家臣の館舎市街寺社など、それ〳〵かたのごとく設られぬ、大むね三吉、福島の旧規によりて、増益の事多し、後三世お歴て、嗣なくして絶へ、封邑臣庶みな宗藩に還り、今は諸郡と同じけれど、旧府の地には別に市令お置て治せしめらる、郡村は、上里村お郡本とす、〈◯下略〉