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陰徳太平記
七十五
輝元卿被移城於広島事 輝元卿〈◯毛利〉常に宣しは、国君の所居は万人の所都会也、さるに今の吉田は其地偏狭にして、備芸両州などお領したる将の為め相応也、八州の太守可居地に非、山中にして海路お隔たれば、敵の推来お防拒せんに便り悪く、又他国へ軍お出すにも不自在也、況今京都の往来滋きには、殊に万事に妨げあり、何処にもあれ於当国蓄威昭徳する地お営て、城郭お移し人民お安んずべきと、求給けるに、二宮信濃守、己斐の川口の五箇の庄こそ、阻河帯江、環山拠険、形勝堅壮の所、子孫永く武備の業お可伝地なれと申によつて、幸に黒田孝高新庄に逗留あれば、輝元より地形の可不可監みて給はり候へと、頼給ける程に、孝高頓て五箇の庄の蘆原に行至て相宅給けるに、美哉山河の固、可比巍国之宝、可并金陵之麗、体国経野、設官分職に、究竟無上の地なりと被申けり、さればとて天正十六年十一月初旬より、二宮信濃守お奉行として、孝高の指麾おうけ、土方氏(とはうし)に命じて以土圭考日景、弁方、右社後市の位お正し、刜奥草刈繁蘆、匠人投鉤縄審方面勢覆、量高深遠近、銀城鉄郭巍然として、厚棟大夏夷庭焦門、依其利迎其勢、大木為杗細木為桷、扶櫨侏儒各得其宜、工巧成て燕雀聚り賀せしかば、同十九年四月吉日良辰也とて、入城の佳処お被調けり、其地や東に瀬野の大山とて三里の間、石梯懸桟百歩に九折して、仰望むに垂線縷、南に草津の海、仁保の入江有て、潟炉数里、北に新山阿生(あぶ)の大山有て、鐘山竜盤石頭虎踞の形象あり、可部川北より来て西東お周廻し、不測の淵に望たれば、不用利阻三而守独以一面、山河之形勢、田里之上腴、可謂金城千里天府之国也、処の名お広島と号す、蓋吾朝お豊蘆原の中津国と号する例お逐時は、今の広島誠に准拠するに堪たり、日本の在ん限は絶せじと、民人衢に歌ひ市に抃(てう)つ、