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陰徳太平記
十九
山口興廃之事 抑此山口(○○)と申は、琳聖太子已来既に二十九代星霜一千余載に及ぬ、〈◯中略〉民俗譲長ける故、四方の商賈は願蔵於其市、天下の旅客は願出於其路、村民肥て貢物闕如無れば、廩廋畜七年糧銭愍累巨万たり、〈◯中略〉代々の築山の館に増飾崇麗、〈◯中略〉弘世〈◯大内〉鐘愛のあまりに、さらば都お此地に遷すべし、〈◯中略〉其外洛中洛外所有(あらゆる)寺社一宇も不残、移されたり、田舎は人の心頑に詞だみて聞悪し、京人に交へなば、麻の中の蓬の曲る心も直く、訛声も聞よくぞ成んずらんとて、町一町に京童六人宛喚下して置れ、諸芸の堪能、諸職の名人、縫物、組物、織染、彫刻の類迄、其家々お呼下さる、又小路小路も石交ら子ば車ぬかりて難通とて、山口五里四万には深さ五尺許に小石お埋れたり、家々門前の柳、道の辺り園生に咲る千本万種の桜花、錦繡の色深く、織自何糸唯暮雨、裁無定様任春風、〈◯下略〉