[p.0699][p.0700]
古事記伝
二十七
穴戸は長門国と豊前国との間の海門にて、筑前国の北面の海より山陰道の南面の海に入る門なり、穴門としも名に負たるゆえは、源貞世〈今川了俊と雲し人〉が道ゆきぶりと雲物に雲く、霜月の廿九日、長門の国府お出て、赤馬の関に移り著ぬ、ひの山とかやいふ麓の、荒磯お伝ひて、はやともの浦にゆくほどに、向ひの山は、豊前国門司の関の上の峯なりけり、海の面は八町とかや雲めり、潮の満干のほどは、宇治の甲瀬よりも猶楽激りためり、さても穴門豊浦の都と申し侍ることは、今の赤間の関と、門司の関とのあはひは、山ひとつなる、其中に、わづかに潮のみちひの路ばかり、穴のやうにて侍るに、其岸の東西に、人家しげかりけり、穴戸とはさて雲なりけり、其お皇后の軍の御舟、通り難かりけるに、御舟よそひて後、一夜のほどに、此穴戸の山引分れて今のはやともの渡りになりぬ、此山さながら西の海中によりて、島となれり、此島の向ひは柳の浦とて、昔里内裏のたちたりける所なるべしと雲り、此穴門の名の説、国人の古く語伝へたるお聞て記せるなるべし、〈但其岸の東西に、人家しげかりけり、穴戸とはさて雲なりけりと雲るは、古言に、海門お戸と雲しことお知らずして、戸お民戸の意と思ひ誤りて雲るひがことなり、穴の如くなる海戸(うなと)と雲意なる物おや、(中略)なほ内山真竜が考に雲く、長門の段浦と、豊前の早鞆崎との門の海、里人は一里ありと雲なれども、いと近くしてわづかに五六町ばかり離れたり、さて此段浦と早鞆と相対ひたる、両方の山の岸、崩れ欠たる形なるお見るに、上代には此処長門と豊前とつゞきたる岩山にて、其下に洞ありて、東西通り、潮通ふ道ありて、船も往来ひつらむ、故に穴戸とは雲なるべし、仲哀天皇紀に、洞海とあるも此なり(中略)と雲り、宣長按に、此考貞世の記せる趣と、大かた似たり、洞海と雲は、久岐は久具理にて、山下の洞おくゞりて、舟の往来し故の名なるべし、◯下略〉