[p.0706]
日本地誌提要
五十八長門
沿革 仲哀天皇の熊襲お征する、行宮お豊浦に営し、徙御八年にして崩ず、後国府お豊浦郡に置、〈即豊浦にして、仲哀天皇の行宮止にあり、〉文治元年、平氏安徳天皇お奉じ、讃岐より航海来奔し、壇浦に至り、源軍に迫られ、天皇海に崩じ平氏亡ぶ、鎌府の初、佐々木高綱お以て守護となす、北条時宗執権たるに及て、始て警固使お置き、北条実政お以て之に任じ、後同族交代し、遂に中国探題と称し、山陰山陽お控制す、元弘中、北条氏亡び、探題北条時直王師に降る、建武中興、厚東武実お以て守護とす、足利尊氏の反する、武実之に応ず、正平十三年、大内弘世、武実の孫義武お滅し、遂に本州お取る、相伝る七世、義隆に至り、家臣陶隆房に殺せらる、毛利元就、隆房お誅し、其地お併す、元就孫輝元の封お削らるヽに及て、僅に本州及周防お領し萩に鎮す、輝元地お分て、義子秀元お府中〈後豊浦と称す〉に封じ、秀元六世の孫師就、其弟政苗お清末に分封す、文久中、毛利敬親〈輝元の後十三世〉萩城お撤し、徙て山口〈周防〉に治す、王政革新、廃して豊浦清末二県お置、又改めて山口県より兼治せしむ、