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長門金匱
一萩の地は大内家時節、吉見氏の領地の由なり、〈◯中略〉 一当所お萩と申事は、今古萩と雲所に人家あり、今の田町通りより南東は皆沼にて、蘆原の水溜りなり、田も聢々無之、よき道もなし、東北の方当萩村と雲、後総名萩と雲也、本の名所お古萩と雲なり、〈◯中略〉 一萩お世人当島と雲、河上水西北へ分れ口の名お川島と雲、夫両方の川内の地は河島之庄と雲、〈手木の庄とも雲〉依之萩にての諺に、当島と雲萩は河内の島なり、 一往古萩八景と雲所は 兼江夕照〈鶴江なり〉 鐘江秋月〈玉江川尻〉 藤江落雁〈佐世屋しきの所なり〉 萩津江暮雪〈今浜崎浦ある脇なり〉 得江帰帆〈御蔵元の所なり〉 三江晴嵐〈金谷古天神〉 二江夜雨〈渡り口橋の辺〉 柳江晩鐘〈にごりぶち〉一後に雲萩八景詩は山田原欽、歌は安部吉左衛門春貞に命ず、 一宗瑞様御一乱以後、初て御国へ御下なされて候て、山口の糸稲に被成御座、〈糸米とも雲〉萩お御城下に御取立なされ候付、諸事為御見合、初て萩へ御越なされ候時は、常念寺お御宿になされ候、常念寺其節までは古萩宍戸民部屋敷なり、