[p.0724][p.0725]
紀伊続風土記
一提綱
総論 本国は上国にして、南海道の首に居りて、近国なり、管する所総て伊都、那賀、名草、海部、在田、日高、牟婁、総て七郡〈延喜式和名抄〉七郡の疆界名号は、大抵孝徳天皇の御世定め給ふなるべし、七郡統る所合せて五十三郷、〈◯註略〉これ又大化年間より仁明天皇の御世〈◯註略〉比までに備はりしならむ、其七郡疆界の四至は、北は和泉河内二国と界し、夫より大和国吉野郡の西南東三面お摎りて、北の方伊勢と境お接し、其大形半壁の如く、東西及南の三面皆海に浜して、西は阿波土佐と海お隔て相対し、東南は大洋に向ひて際涯お知らず、和泉河内二国との境、葛城の連峯列障の如くにして、其南に四郡東西に列せり、伊都郡其東首に在りて、大和国宇智吉野両郡と接せり、〈◯註略〉伊都の西お那賀郡とす、那賀の西お名草郡とす、名草の西海浜にあるお海部郡とす、此四郡北に葛城あり、南に長峯あり、〈長峯とは東は大和国に起りて、西は海部郡に至りて海に入る連峯おいふ、〉紀川其中央お貫きて西に流れて海に入る、舟行通ずる所十四五里、大和国に至れり、四郡の地の延袤お量るに、東西十三里許、南北六七里なり、又長峯の南に在るお在田郡とし、又其南にあるお日高郡とす、並に東は大和国十津川と界し、西の方海に瀕す、各大川ありて其郡中お貫き、在田にあるお在田川といふ、舟行通ずる所五里、日高にあるお日高川といふ、舟行通ずる所七里、二郡の延袤南北十四里許、東西近き所十五六里、遠き所二十里余、日高の東南に続きて、北は大和伊勢に界し、東南大洋に向ふ地お牟婁郡とす、〈◯註略〉牟婁の海浜塩の御崎最南の極にして、塩の御埼より日高郡比井御埼は乾位に当り、伊勢国度会郡は艮位に当る、牟婁郡一国の半お占めて、六郡お併せて大抵相対すべし、其地高峯峻嶺重畳連綿して、諸川其間お分画す、北にあるお富田川といひ、其東南にあるお日置川といひ、其東なるお大田川といふ、舟行通ずる処皆七八里なり、其東なるお熊野川といふ、最大にして東南に流れて海に入る、舟行通ずる処十四五里なり、其路程南より東に回りて、日高の界より熊野川に達するまで三十里許、北の方大和の国界より南の方海に至るまで十五六里、熊野川より北皆大和お背にして、東の方海に面す、其地形東西広さ四五里、南北長さ二十里許、北の端伊勢と相接す、国中の幅員長短平均して、大抵東西五十里余、南北三十里余、極星地お出る度数お測るに、若山ありて三十四度半弱なり、本国の地は即上世大八洲国の内、大日本豊秋津洲の最南の一区域にして、旧其大名お東の方お熊野国といひしお、後熊野お併せて、木国お以て総名とす、