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紀伊続風土記
二十七那賀郡
総論 疆域、東は伊都郡に接し、西は名草郡に接し、南は有田郡と界し、北は和泉国泉南日根二郡に界す、其広袤大抵東西四里余、南北六里余、紀の川其中央お貫きて東西に流れて、川の北は二里にして葛嶺お界とし、川の南は四里にして、遠く長嶺お以て界とす、那賀は旧郷名なり、今の長田の荘辺の名にして其義なるべし、其地平広にして長の名に応ぜり、〈◯註略〉郡名お定らるヽ時、取りて大名とせられしなり、〈◯中略〉大宝に当郡おして糸お献ぜしむるお見れば、当郡蚕桑に宜しき地なる事知べし、今猶郡中多く棉花お作り、木綿并に紋羽お織るお婦女の業とす、古糸お作りし遺意といふべし、紀の川郡の中央お流るヽお以て、郡中堰渠お所々に作りて、灌漑の利あり、田畑皆沃腴にして、五穀の性少し伊都に譲るといへども、名草に勝れり、且川あるお以て運漕の便あり、又山あるお以て薪柴乏しからず、通じてこれお論ずるに、民の生産宜しといふべし、郡中商買多くして、軽薄の風あり、山中の諸村といへども、又大に寒乏に至るものなし、粉河あり、根来あり、高野の街道にして、中世天子の臨幸、公卿の参詣屡なりし故、郡中繁昌して旧跡等も亦多し、