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紀伊続風土記
六名草郡
総論 孝徳天皇の御代、国郡お定め給ひしより、名草お以て郡名とし給ひしなり、〈国造旧記曰、十九代大山上忍穂立名草郡とある、則是なり、〉其名義は詳ならず、或説に、渚の義ならむといへり、〈渚、和名抄韓詩注雲、一溢、一否曰渚、和名奈木左とあり、木と久とは語通ひて、古の地形に拠ればよしありげにきこゆ、〉郡の広袤東は那賀郡に接し、西南は海部郡に接し、北は和泉国日根郡に界す、東西行程六里余、南北三里半、〈◯中略〉古より諸郡の中にて、田野平壙にして、播種地に宜く、五穀蔬菜より草蓏衆草に至るまで、生殖せざる物なし、人民富庶にして、郷里の数も他郡より多き事数倍す、官知神も亦多し国中輻湊の地なること知べし、故に古より国造こヽに居し、国府お此郡に建られ、〈直川荘府中村〉守護も亦是に居れり、〈大野荘〉大抵国中の貴族著姓援に出ざる者なし、〈◯下略〉