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紀伊続風土記
六十九牟婁郡
総論 牟婁は日高郡の東南に続きて、其地の延袤、伊都、那賀、名草、海部、在田、日高の六郡お合せても、其大きさに較ぶべきにあらず、長短相補ひて、其広さおいはヾ、東西三十五里、南北十二三里許なるべし、六郡の地は、大抵大和国の西にあり、当郡は大和国の南より東に摎りて吉野郡お包みて、北の方伊勢国と境お接す、東南は大瀛に向ひて、其際涯お知る者なし、万国図お閲るに、本国より東南隅八丈島お除きて、其外に国あらず、実に洋冥に浜すといふべし、此地上古は熊野といふ、今に至りても是お通称とす、牟婁の名は初めて斉明紀及万葉集に出でヽ、往古は僅に郡の西辺、今の田辺近辺の称にして、後の牟婁郷の地即其地なり、〈事は田辺荘論に詳なり〉其名義は館(むろつみ)の義にして、海津官舎あるより起れる称ならむか、〈播磨室津周防室積なども同じ、又尾張師埼おむろ崎ともいふ、是も皆海辺なればおなじ義ならむ〉又は温暖の義にして、其地の暖なるより起れる称ならむ、〈大和物語に、きの国のむろの郡に行く人は風の寒さも思ひ知られじ、其返しに、紀の国のむろの郡に行ながら君とふすまの無きぞかなしき、〉其地お除く外は、尽熊野の地にして、〈大抵今の富田坂より東の方〉其地壙大にして一邦域おなせり、其名義、熊は隈にて古茂累(こもる)義にして、山川幽深樹木蓊鬱なるお以て名づくるなり、〈◯中略〉孝徳帝の御世、国郡お分ち給へる時、熊野国お廃して牟婁の地お加へて一郡とし、本国に隷し、牟婁郡と名づけ、郷お分けて岡田、牟婁、栗栖、三前、神戸の五郷とす、其帝の記には牟漏郡と書けり、五郷の地今これお地形に考ふるに、岡田、牟婁、栗栖、三前の四郷は、今の口熊野の地なり、唯神戸の一所熊野の神領にして、今の奥熊野おいふに似たり、神武紀に神邑とある即其地ならん、〈◯中略〉又中世以後五郷の名も絶えて、郡中自然に区分し、遂に四十三荘となれり、又其地の大きなるより、大名も自から二に分れて、東の方お奥熊野と称し、西の方お口熊野と称す、其奥口の界、大抵郡の中央にてわかる、郡中第一の大岳お大塔峯といふ、此山奥口の中央に在て東西お隔絶して、蟠根は十里の外に跨がり、其枝峯蔓嶔遠く弥延するお以て、中間十里許の地、人行絶えて通ぜず、其勢東西お分ちて、口奥の称お立ざる事お得ず、故に熊野の街道二条ありて、一は中辺地といひ、一は大辺地といふ、中辺地といふは、山中お行きて大塔峯の西より北へ回る道おいふ、大辺地といふは、海浜に沿ひて大塔峯の南より東へ出る道おいふ、大辺地中辺地と両道に分るヽは、大塔峯中央お隔るの故に由るなり、