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紀伊続風土記
四若山
総論 若山或は和歌山とも書す、元禄年中、若山の文字に定めらる、若山の城地は、岡山又は吹上峯などいひし地にて、名草海部両郡の界にして、雑賀荘に属す、四面壙廓の中、倔然として特起せり、南に長峯あり、北に葛城ありて、屏障お列するが如く、其中間豁然として東に拓て、那賀名草の壙野一瞬の中にあり、西蒼海に臨て、淡阿の諸山指点すべし、岡山近く南に連りて、万松蓊鬱として竜蟠虎踞の勢あり、紀川東より来て、郭北お摎て襟帯の形おなせり、天正十三年、豊臣太閤根来寺お滅し、太田城お降し、国中お統一して、羽柴美濃守秀長に賜ふ、此地の体勢城地に宜きお観察して、親く自縄張お命じ、三月二十一日、鍬初あり、藤堂和泉守、羽田長門守、一庵法印お普請奉行として、本丸、二の丸、其年の内工功竣る、秀長大和国郡山お居城とし、其臣桑山修理亮重晴〈入道として法印宗栄といふ、若名小藤太尾州愛知郡地士三万石お領す、〉お以て、本国の城代として、同十四年より茲に在城して、若山の城と称す、此地吹上浜の東に峙お以て吹上峯と号し、又岡山の北首にあるお以て岡山(○○)の名あり、然るに岡山の南和歌浦の諸山と其勢相接きて、和歌の名最四方に高きより、取て若山と名づくといふ、〈若の字お稚弱の義に用ること、賈義新書胸奴篇に、猶若子之鍔慈母とあり、古事記万葉集にも、亦稚弱の義に用ふ、◯中略〉慶長六年、町割ありて市鄽お改易し、商賈百工四方より来り集り、日お重ね歳お歴て、漸都会の地とはなれり、元和五年、南竜公〈◯徳川頼宣〉封お本国に受られて、五月十八日、初て入国せらる、以前の大手口お改めて北お以て大手とし、京橋門の北通衢お開て本町とす、其余市鄽寺院の類しば〳〵移易あつて、各其便に就しめ、猶城下の区域、人民お容るヽに足ざるお以て、東の方広瀬の川お越て、新内村中野島村領に宣りて、市鄽お開きて新町と号す、又北の方鈴丸川お越て、中野島領の内に市鄽お開きて北新町とす、これより城下の区域、北は宇治村の故地お尽して紀川堤お限り、東北隅は中野島村と人家相接ぎ、東は新内村より太田村の堺に宣り、南は吹上お尽して関戸村と相隣り、西は湊川の岸に臨むお界とし、其中央お内郭とす、若山大名八所に分る、中に就て諸士の邸第五箇所、東に岡広瀬あり、北に宇治あり、南に吹上あり、西に湊あり、工商の居五箇所、北に内町、東に広瀬、新町北新町、西に湊あり、〈工商の居五箇所尽町名あり、士邸五箇所総て名称なし、〉此其大略にて、士宅商屋其中に相間雑する者、亦其幾許処なることお知らず、凡城下の区域、街衢逼促、人戸闐盈して尺地の間隙なく、百工の所作商賈の所販、山物海物より諸製造の物に至るまで、雲の如く集り山の如く積て、南海の一大都会となれり、