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日本地誌提要
六十淡路
沿革 古へ国府お三原郡〈今国衙村と雲〉に置、天平宝字八年、淳仁天皇廃せられ、三原郡に遷り明年崩ず、〈国衙村の北、十一箇所村、野辺宮あり、其旧止と雲、〉鎌倉の初、佐々木経高お以て守護となす、正治二年長沼宗政之に代る、足利尊氏の反する、細川氏おして南海お経理せしめ、細川師氏〈頼春の弟〉お以て州守に任じ、守護となし、養宜〈三原郡中八木村〉に治す、永正中、其六世孫尚春、三好氏に殺せられ、地終に三好氏に帰す、天文の末、三好長慶の弟安宅冬康、由良城に居て州主と称し、又洲本に城く、天正九年、冬康の子貴康、織田信長に降る、十一年、豊臣氏南海お定め、仙石秀久お封じ、洲本城に居らしむ、十三年、秀久お讃岐に徙し、脇坂安治お封じ、〈三万石〉又三原郡志知お加藤嘉明に賜ふ、慶長中、安治、嘉明、皆封お転じ、池田輝政の三男忠雄お封ず、元和元年、全州お以て蜂須賀至鎮に加封し、世襲、其臣稲田氏お洲本に置き城代となす、王政革新、廃して名東県に属し、津名郡お割て、兵庫県より兼治す、又改て悉く名東県より兼治す、