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南海通紀
二十
讃州新高松府記 天正十五年、生駒雅楽頭正規、讃岐国お賜て当国に入部有り、先引田の城に入給ふ、其後国の中区なれば、鵜足郡聖通寺山の城に移り給ふ、正規曰、国中に有来る所の城々は、皆乱世の要害にして、治平の時の居城の地に非ず、平陸の地お設て居住すべしとて、其地お求らるヽに、香川郡矢原郷に究竟の地あり、往古より河水の流久しく海中に入て、地より八町浜に白沙集り須賀お生じ、野原の庄に相続き、西浜東浜とて漁村あり、又郡中に山有て南北に横はる、其形象梓弓の如く、故に弦打山と雲ふ、又海西に佐見島有て弦打山に相対す、〈◯中略〉此山大江の東なれば、江東のはなと雲なり、此山と西浜の中間潮入にて、坂田室山の下まで入海なり、東は野方口坂田中河原まで潮のさし引あり、中筋十八町白沙海中に入る事、一筋の矢の篦の如し、故に矢原と名付る也、〈◯中略〉正規此所お見立、地形の吉凶お占んとて相人お召さるヽに、〈◯中略〉相人卜お布て曰、此地富貴繁昌ともに備はり、四神相応の地と雲つべし、〈◯中略〉土地の名お目出度改めらるべき歟、其謂れは聖通寺より野原へ出し給ふ時は其詞凶し、聖(ひじり)寺より通じて野原へ出ると読ければ、野之名お改て、目出度唱への名になさるべきかと申上しかば、正規猶と有て、東の方高松の名お改め城の名とし、古高松は波の奇来る所なれば、寄来村と名付給ふ也、