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南海通紀

四国并近国錯乱記 伊予国河野は世々越智の大領たり、猶諸郡の大領お兼て賜ることもあり、或は伊予権介お賜ふ事もあり、源頼義伊予守たりし時、源家の類族と成て其寵厚し、此故に頼朝卿興起の時、源家に忠あり、庄園数け所お賜て家門繁昌す、大永享禄の間に河野四郎通直、我家お厚して国中お合んとす、予州は旧邦にて故家旧姓猶多し、皆河野が氏族に列す、然ども大義不成して止ぬ、予州宇和郡は上代藤原純友の伊予の掾に在て乱おなす時、遠江掾遠保勅定お承て、伊予国に下り、当国の凶賊お討て軍忠あり、宇和郡お賜て当郡に居住し、子孫相伝て鎌倉将軍家に至まで相続、北条泰時の執事たるに至て、常盤井の入道太政大臣強て所望あるに依て彼地お召放され、禅閤の領に附進せらる、嘉禎二年丙申二月廿二日也、此後世々公家領たり、応仁乱の後、細川管領家の執達に依て、西園寺殿お以て当国の総兵官とす、是お板島の屋形と雲也、河野(○○)、宇都宮(○○○)、西園寺(○○○)、三人の旗頭(○○○○○)也、