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南海通紀

四国并近国錯乱記 土佐国は七郡にして、上世七人の郡司あり、其下に七十二人の国人士あり、昔頼朝卿の御時、香美郡の住人夜須七郎行宗と雲者、源家に忠ある故に、香美長岡二郡お賜て鎌倉殿の仕承として、国中の成敗お掌しむ、行宗は同郡の曾我部お以て臣とす、香美郡に居るお香曾我部とし、長岡郡に居るお長曾我部とす、行宗世々の後、国務に惰り、両曾我部お以て七人の郡司の事お掌しめて、夜須氏は安佚お旨とし、国中の事お与聞事お不得して二郡の権お失ふ、援に土佐の幡多郡は四国の要地にして公領たりしが、応仁乱の後、将軍家の奉公人なくして国政行れず、故に細川執事の計として、大永元年に、一条房家公お申下し、幡多郡一万貫の地お献じて土佐の国司と定め、七郡の旗頭各一条殿の命お奉しむ、〈◯中略〉長曾我部〈◯元家〉遺恨お起し、一条殿の命お不用して、私の弓矢お取起し、本山、吉良、大比羅お攻伏、竟に一国お合呑して土佐の幡多に至る、〈◯下略〉