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筑前国続風土記
一総論
此国お筑前と名付し事、古は筑前筑後一国にして、これお筑紫といへり、故に日本紀等の古書に筑紫といへるは、多くは筑前筑後おさせり、又九国おすべて筑紫と称し、或は九州の内筑前筑後の外おも、筑紫と雲し事も間これあり、筑前は古へ官府のありし国にて、九州二島おすべてまつりごちし所なれば、その国の名おとりて、九国おもすべて筑紫といへり、たとへば大和に帝都在し故、日本おすべてやまとヽ称せしがごとし、唐土にも亦いにしへかヽるためし多き事になん侍る、〈◯中略〉筑紫と名付し意お考ふるに、釈日本紀にいはく、〈◯中略〉右四説の内、初の説は此国の形、木兎に似たりといへり、今案ずるに、筑前筑後のかたち、木兎の形に似たりとも見え侍らず、九州の総図お見るにも、其形木兎に似ず、然れば木兎に似たりと雲説信じがたし、後の三説はみな尽の義おとれり、いにしへ筑紫と名付し事、一定の説なくして、民間にさま〴〵雲伝へたる言ばお、風土記お作れる人考へに備んため、こと〴〵く載侍るならし、何れも決定すべき説なし、〈◯中略〉ひそかにおもふに、いにしへ異国より賊兵襲来るおふせがんとて、筑前の北海の浜に石垣お多くつけり、其故につく石といへる心なるお、略してつくしと雲成べし、雑書の説に、上古の時、西蕃の国より度々日本お侵したる事あり、其後仲哀帝も、異国より来り侵せし賊の流矢にあたりて崩じ給ふといへり、菅丞相のうたに、筥崎や千世の松原石だヽみ崩れん世まで君はましませ、是いにしへ筑前の海辺、筥崎博多のあたりに、石垣ありし証なり、昔より博多は唐土船の著し所にて、要害堅固にして、石垣多かりしにや、博多の別名お石城府といふ事、僧万里の梅庵集、及異国の人作りし海東諸国記にも見えたり、近代亀山後宇多の御時、蒙古の賊兵多く攻来りしに、博多の浜に石垣おつきし事は、上代より有し石垣お修補したるなり、此時始てつきたるにはあらず、鎌倉の北条家より、筑前の太宰少弐に書お遺して、昔よりありし石垣お修復すべきよしお、催せしお少弐より又此辺の士に下知せし証文あり、其石垣は今も博多の西、古道松原、生のまつ原、今津辺、所々に少残れり、然れば昔この国おつくしと名付し事は、筑石といふことばおとれる成べし、是前人のいまだいはざる所〈篤信〉が億見なれど、しばらく記して識者の是正お待のみ、