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古事記伝

筑紫国、万葉五〈二十三丁〉に都久紫能君仁とあり、後に二国に分れたり、和名抄に、筑前〈筑紫乃三知乃久知〉筑後〈筑紫乃三知乃之里〉とある是なり、風土記に、筑後国者、本与筑前国合為一国と雲り、〈◯中略〉さて如是二に分れしは、何御代とも知れず、書紀景行巻十八年下に、筑紫後国とあれば、其より前か、はた分しは後なれど、前へも及してかくは書るか、都久志と雲名義は、筑後風土記に三説ある中の一に、昔この前と後との堺なる山に、荒ぶる神ありて、往来人多に取殺されき、故其神お人命尽神(ひとのいのちつくしのかみ)となむ雲ける、後に祝祭て筑紫神と申すとあり、此説さもありぬべく聞ゆ、〈今二の説も共に尽の意なれど、ひがごとヽきこゆ、又書紀私記に、国形の木兎(つく)に似たる故とあるお、世世の物知人も用たれど、此もひがごとゝきこゆ〉、式に筑前国御笠郡筑紫神社あり、此神なるべし、〈又近世に、貝原某が釈名てふ物に、古異国より寇来お防むがために、筑前の北方の海浜に石垣お多く築せ賜ひし故に、築石の意ならむと雲る、是も由ありて思ゆれど、異国の賊お防がれしこと〉〈は、上代には無き事なり、〉