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筑前国続風土記
一提要
総論 むかしは、当国に太宰府あり、帥已下官人多く是に居て、九州二島の政事おとり行ひ、蕃客にも対接せり、故に西の都と称して、富庶の所なりしとかや、源頼朝卿、総追捕使たりし後、関東の士武藤小次郎と雲者、泰衡退治の時軍功あり、その恩賞として太宰少弐に任ぜられ、筑前、豊前、肥前、壱岐、対馬の守護職たり、其子孫世々少弐と称、伏見院永仁元年に、鎌倉より探題職お此国に置て、九州二島の政事お司どらしめられしかば、猶いにしへにもおとらぬ繁華の地なりしが、天文の頃、天下大に乱れし頃、九州は偏地なれば、乱擾殊に甚し、天正の時に至り、薩摩に島津、肥前に竜造寺、豊後に大友、この三家、鼎のごとく持ちて、国おあらそひ境おおかして、合戦止時なく、中について此国は襟矜の地なれば、戦陣のちまたとなりて、諸民居お安くせず、多くは家お出て、山林に身お隠し、侵掠にあふて資財お失ひ、終に壊乱の地となれり、国中にて、少弐、宗像、原田、秋月、麻生の五家大身にて、其家人おわかちて瑞城お守らしめ、各部村お諍ひ、戦闘お事としてむなしき日なしかヽりし所に、天正十五年、秀吉公九州お征伐して、乱おしづめ治に復し、此国お以て、毛利元就の三男小早川左衛門〈後任中納言〉隆景に賜りける、隆景天性知慮深くして、よく民おなつけ、衆お撫られしかば、猶乱世に近き時なれど、国中に叛逆なすものなく、四境の内治りて百姓悦服しける、又廃たるお起し、絶たるおつぐ志有て、神社お貴び、造復せらる、されども国お治ること隻八年にして、其養子秀秋にゆづりて、備後の三原に隠居せらる、秀秋天性昏暴の人にて、養父隆景の旧制にそむき、国政正しからず、万民困みあへり、此由秀吉公聞給ひ、隆景逝去の後、国お没収し、慶長二年に、越前府中にて十六万石の地お給ひ、彼地に移られしかば、此国には主なく成て、石田治部少輔三成代官として、三年の間かりに国の政事お取行ふ、〈今も国中農人の家に、三成下知の状証文所々にあり、〉同四年正月、東照君の御詫言によりて、秀秋再此国主となれりける、同五年の秋、石田治部少輔乱お発し、天下麻の如く分れ、万民累卵の憂おいだけり、されども東照君文武の徳おはしまして、一度戎衣して天下お平げさせ給ひしかば、四海忽安静にして、民今に至るまで其賜おうく、此時にあたりて、黒田孝高入道如水公、其子甲斐守長政公は、元来二心なく東照宮の御方に参て、父子ともに莫大の忠義お尽されしかば、其勲功の賞として、此国お以て長政に賜へり、如水公は英雄の才世おおほひ、明哲の智衆に抽んでたりしかば、能功おなして其身お保ち給ふ、されば若きときは秀吉公お助けて非常の功お立、時機お見禍おさけて、四十余り強壮の盛に早禄地お辞して、令子長政公にゆづり、年老て東照宮の御為に兵お起して、大友お虜にし、筑紫おしづむ、長政公は若き時より日本朝鮮において、数度の武功お立つ、隻乱に勝の力群に越たるのみならず、治お致すの徳も亦群衆に抜んで給ひしかば、古き道お聞用ひて、国中の臣民にのぞみ、賞罰正しく、法則厳にして、自倹約お守り、民の非お禁じて能国お治め給ひし故、国豊に民安くして、又むかしの世に立帰りぬ、長政公此国お治め給ふ事、慶長五年以来二十四年にして、元和九年閏八月四日、京都報恩寺にて逝去し給ふ、