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筑前国続風土記
二十一
志摩郡 続日本紀元明天皇和銅二年、筑前国島の郡の少領に姓お給りし事あり、是此郡の事、国史に見えし始なり、また万葉集の十五巻にも、筑前国志摩郡の翰泊とかけり、三代実録巻二、貞観元年正月、太宰府言、筑前志摩郡兵庫鼓自鳴と雲々、この郡お志摩と名附し事、むかしは今津のまへ、衰魔山の後の入海西へ通り、桑見元岡の前より前原にいたり、此間皆海にして、西北の諸村諸山みな海中にありしゆへ志摩とは名附けり、志摩とは、島の字おわかちて二字にかけるなり、百年以前入海漸田となりて、島にありし西北の諸村、今はみな陸地につらなれり、近年まで東西のはしは猶かたのこりしが、是又近年すでに新田となれり、むかしの入海より向ひに泊村あり、是むかしの海の入江にて、舟の泊りし所にして、唐船おもこヽにつなげりと雲、田の字にも浦の字の付たる名多し、亦南に浦志村あり、是又海辺にありしゆへに名付しならん、此入海なりし所の田のそこおかへせば、今もかき蛤のから多し、陵谷変遷の理、古今そのためしすくなからず、昔の海なりし筋よりこなたにも、亦志摩郡の内、青木、如原、谷村、今宿、田尻、太郎丸、板持、高田、志登、池田、波多江、洞浦、志前原等諸村あり、すべて中通と雲、此諸村はみなむかしの入海より東南にありて、怡土郡の方につらなり、島のかたにはつヾかざれど、入海のほとりに近ければ、志摩郡に属しけるにや、また此諸村、むかしは怡土郡なりしお、後に乱世の時、みだりに領地おわかちとりて、志摩に属しけるにや、されば延喜式神名帳に、志登神社お怡土郡とかきしも、志登村はむかしの入海より南にあれば、いにしへは怡土郡に属せしお、近代志摩に入れしにや、いぶかし、凡怡土志摩は、その地相ならび隣りて、国の西裔にあれば、おなじくつらねて怡土志摩と称す、然れば怡土郡は山川そなはり、新材多く、平原ひろくして良田多し、此郡は海に近くして、所々に漁家あるゆへ鮮魚多し、海味ともしからず、運送の便よしといへども、山に林木なくして、柴薪材木ともし、山間及海浜に村里多くして、平原すくなく、地やけて良田すくなし、たヾ麦豆によろし、川小にして水災なし、怡土郡に比しがたきのみにあらず、国中の諸郡にたくらぶるに、最下郡とすべし、