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筑前国続風土記
十五
宗像郡 日本紀第一巻には胸肩と書り、旧事記には宗像とし、古事記には宗形とす、凡和語のならひ、訓同じければ、文字相用るは常の事なり、宗像と名付し意は、宗像社記に雲、筑前国風土記曰、宗像大神自居崎門山天降之時、以青〓玉置奥津宮之表、以八坂瓊紫玉置中津宮之表、以八隻鏡置辺津宮之表、以此表成神体之形、而納三宮、即納隠之、因曰身形郡、釈日本紀雲、先師説雲、胸肩神体為玉之由、見風土記、然則尋其由来為其神像者也、今この説によりて案ずるに、宗像と名付し事、三神の御身の形おもつて三宮に納しゆえ、身の形の社といふ、三神のいますところなる故、身形郡と号す、みのとむなと相通ずればいにしへ和語のならひ、転じてむなかたと名付しならん、 一凡此郡は北に海おうけ、海中に島あり、東は遠賀郡にとなりて、高山お以て限とし、南は鞍手郡にさかひて、また山お隔て、西は原野にて糟屋郡につヾけり、郡中にも山野多くして、所々に小川あり、凡河海の利乏しからず、隻北海に近くして、時に颶風の災あるのみ、