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筑前国続風土記
十三
遠賀郡 日本紀に、仲哀天皇の八年春正月己卯朔壬午、筑紫に幸し給ふ時に、岡県主の祖熊鰐と雲し人、天皇の筑紫に幸し給ふ事お聞きて、周芳の沙歴の浦に参迎へ奉りしことあり、岡県とは則此遠賀郡の事なり、遠賀とは岡の字お真名倭字に書たるなり、仙学万葉注に、筑前風土記お引て、瑦柯県と書けり、内浦の西原村より蘆屋までの海辺に高き岡つヾけり、故に其辺お岡と称し、郡の名お是によりて名附しならん、又むかしは此郡所々に馬牧多くして、村井、熊村、波津浦抔に牧ありし其地あり、猶この外にも多かりしとかや、故に中頃より、此郡お御牧郡(○○○)と称せり、僧万里が梅庵集に、宗悦大人者、筑之前州御牧香月郷其扮里とかけり、又天文年中、大内義隆大府定降も、筑前御牧郡といへり、寛文四年に、国郡の名皆旧に復すべきよし台命あり、是よりして古き名にかへりて、遠賀郡と改む、此郡北に海あり、東は豊前企救郡に隣りて、大山おへて、西は宗像郡に対して、山お境とし、南は鞍手郡に平地つヾけり、山遠地平らかに、田地多くして境内広し、土肥て穀ゆたかなり、大河あり、海近くして運漕の便よく、海味もともしからず、魚多く、国中第一の大郡なり、然れども深山すくなくして、水損多し、故に旱歳には他郡より豊作なれども、雨どしには凶飢にたえず、