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筑前国続風土記
十一
嘉摩郡 日本紀安閑天皇二年五月、筑紫穂波の屯倉、鎌屯倉おおくと有、嘉摩穂波の事、国史に見えたる初なり、此郡は穂波郡と相ならんでつヾけり、恰一郡の如し、南は穂波の上流にありて穂波とならばず、北は穂波と東西にならびて、嘉摩郡は東にあり、穂波は西にあり、凡穂波の東南に当れり、此郡の東は豊前田川郡につらなり、三方は大山あり、中に大河あり、薪材木ともしからず、山林の利多し、田畠肥饒なり、村里皆山中に有て、土民の風俗質朴なり、好郡といふべし、凡此郡に四河内あり、千手川は下臼井村にて大隈川に落る、長野河底千手是一河内なり、桑野河内より出る川は、大隈川にして、是本川なり、その東山田河内の川は、蒲生に出て、大隈川に落る、庄内河内の川は鹿毛馬勢田に出る、