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太宰管内志
筑後六
上妻郡 名義は、景行天皇〈筑紫巡狩件〉に、十八年七月丁酉、到八女県、〈◯中略〉水沼県主猿大海奏言、有女神名曰八女津媛、常居山中、故八女国之名由此起也とあり、されば加牟豆万は加牟都邪米のつヾまりたるなり、〈やめおつヾむればまとなるなり、さて此八女津媛の名の起り、いかなる由ともしりがたし、もしは地名お元にて負せたるお、其人広く其辺お領ずるにつきて、人の名より又移りてそこの大名となれるにてもあらむか、◯中略〉方位事は東方豊後国に隣り、南方肥後国に隣り、西方山門、下妻、三瀦三郡にとなり、北は御井、山本、竹野、生葉四郡に隣りて、東西十一里余、南北三四里或五里あり、郡中大山多くして田地すくなし、