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西遊雑記

七月朔日筑後に入る、堺に標木建、是より立花左近将監領分とあり、扠筑後は、山少く平地多く、所々に森村見え、焚火不自由ならず、水の流れもきよく、上々国の風土也、然るに在中広く見渡すに、豪家と覚しき百姓一家も見えず、風俗肥後のごとく、十人に六七人までは、男女、ともに夏月は裸身にて、婦人などの人お恥る気色更になし、風土は肥後よりも勝れてよき国ながら、人物言語の風俗はおなじ、初めにいふごとく、花は三芳野人は武士にて、城下近き村はいつしか見習ひて、中国筋の風俗におとらず、在々に入ては、中国上方筋の在とは大ひに劣れり、農具なども違ひしもの多し、中にも此辺の筵は角にして方六尺余、五穀類お日に干に、こぼれずして便理也、然れ共雨にても降る時は、壱人にて取入る事自由ならず、二人がヽりにて持はこぶ事なり、何事にても二つながらよきはなきものなり、又へふりといふ農具あり、 畑方三分、田方七分の国ゆへに、筑後川お堰て口またに小川あり、水損はいかならん、早挽はなき国と見ゆる、此川々に鮎多く、鵜遣ひ村々に有、