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古事記伝

豊国は登与久邇と訓べし、何書にも皆然有り、〈登与乃久爾とはいはず〉最も後に二国に分れて、和名抄に、豊前〈止与久爾乃美知乃久知〉豊後〈止与久爾乃美知乃之利〉とあり、分れしは何時ともしれず、さて書紀景行巻十二年下に、遂幸筑紫到豊前国、長峡県興行宮而居、故号其処曰京也、冬十月到碩田国、其地形広大亦麗、因名碩田也とあり、風土記にも此事あり、されば其国の大名お豊国と雲も、此意なるべし、〈豊はゆたけく大きなる意なり、豊後国風土記の、豊国の名の説はいかゞ、〉碩田は後に郡となれり、〈和名抄に、豊後国大分郡これなり、又大隅国桑原郡にも、大分豊国てふ二郷ならびてあり、是は別ながら由あることなるべし、〉