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日本地誌提要
六十七豊前
沿革 古へ国府お仲津郡に置、〈今草場村に在庁屋敷あり、蓋し其遺止なり、〉建久六年、宇都宮信房お以て守護とし、仲津郡城井(きい)郷に居る、子孫因て城井氏と称す、其後大友能直、本州及豊後の守護となり、嘉禄の初より、少弐氏本州の事お兼管す、足利尊氏の反する、城井冬綱〈信房五世の孫〉之に属し、因て守護となる、正平中、肥後の菊池氏日に強く、来て西境に拠り、新田義基お馬岳城〈京都郡大谷村〉に置き、之お鎮す、天授の初、足利義満、大内義弘に守護お与へて西伐せしむ、九州平定の後、本州永く大内氏に属す、天文の末、大内氏亡び、毛利元就将お遣て来り窺ふ、弘治の初、大友義鎮亦入侵して城井氏お降し、州の大半お略し、毛利氏僅に企救京都二郡お得たり、天正の末、島津氏州内お侵攘す、豊臣氏西征の後、黒田孝(よし)高お中津に、〈六郡お領す〉毛利勝信お小倉に封ず、〈田川企救二郡お領す〉関原の役、黒田孝高、加藤清正と共に東軍に応じ、九州お徇へ、勝信お降す、徳川氏、孝高お筑前に移封し、細川忠興に全州お賜ひ、小倉に治す、寛永九年、細川氏転封の後、小笠原忠真お小倉に封じ、九州探題の事お司る、忠真其四子真方に新田万石お分つ、又小笠原長次に中津お賜ふ、〈八万石〉五世長興、播磨〈安志〉に転じ、奥平昌成之に代り、凡て三藩、慶応の初、小倉藩毛利氏に陥され、徙て香春に治す、王政革新、香春お改て豊津とし、其支封お千束と称す、既にして皆廃して県とし、又合併して小倉県お置、