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日本地誌提要
六十八豊後
沿革 古へ国府お大分郡に置、〈今の古国府(ふるごふ)村〉鎌府の初、大友能直お以て守護とし、鎮西奉行お兼しむ、子孫守護お世襲し、府内に治す、建武中興、能直五世の孫貞宗更に守護に補す、其子氏時足利氏に属し、屡肥後の菊池氏と戦ふ、永正中、貞宗七世の孫義鑑(あき)、筑後の東境お略有す、天文の末、其子義鎮(しげ)菊池氏お滅し、肥後お併せ、大内氏の亡ぶるに乗じて、兵お豊前筑前の間に出し、毛利氏と戦ひ、其豪族お圧服して二州お略取す、永禄中、筑後お取り、肥前の竜造寺氏お降す、是に於て大友氏提封六州に跨がり、自ら九州探題と称す、義鎮封お其子義統(む子)に伝ふ、既にして竜造寺氏先叛き、肥前筑後諸族皆携弐し、疆域日に蹴まる、天正十四年、島津氏来り侵し、府内陥り、義統出奔す、明年、豊臣氏西征し、義統の封お復す、朝鮮の役罪ありて封お収め、之お周防に幽し、其地お割て中川秀成お岡城〈大野郡〉に、毛利高政お佐伯城〈海部郡〉に封じ、太田宗隆お臼杵に、福原直高お府内に、熊谷直陳お安岐(あき)〈国東郡〉に、垣見家純お富来(とみく)〈同郡〉に分封す、関原の役、太田、福原、熊谷、垣見四氏皆亡び、毛利中川二氏旧封お保つ、其余州内封お受る者、臼杵〈稲葉貞通〉杵築、〈初小笠原忠矩後松平英親、〉日出、〈木下延俊〉府内、〈初竹中重成、後松平忠昭、〉森〈久留島長親〉とす、共に七藩、又郡代お日田に置く、王政革新、皆廃して県となし、又改て大分県お置、