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太閤記
十四
豊後守護大友〈◯義統〉御折檻之事 覚 御使者福原右馬助、熊谷内蔵允、 一先手之城々に有之者、及難儀之折節、可相救ため、つなぎの城々拵置、人数お入置候義、其段何も存知之前也、然るお小西が急難百死一生なりと雲共、不及助成、剰平壌之様子おも不聞合、逃崩候事、前代未聞之仕立、不及是非候事、 一秀吉若年之昔より、此道に携と雲共、終に吾勢越度お取事なかりし、是は殊に大明勢との合戦なれば、日本のためかた〳〵以一きは可尽粉骨之処、武名にも不恥、忠義之心もなかりし事、武士たる上、絶言語事也、向後のため、一命おも可被果之義なりと雲共、頼朝卿より久しく伝りし家お、可及断絶も聊道に違ふやうにも覚え侍るに因て、死罪お宥め畢、能武士之上お吟味し、悔前非可申事、〈◯中略〉 一其身之事は、安芸宰相所に預置候事、〈◯中略〉 文禄二年五月朔日 秀吉在判 高麗陣衆各御中