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西遊雑記

豊後の国は、豊前よりも大国といへども、風土はおとりて宜しからず、在中に入ては、豪家と覚しき百姓一家もなく、白壁なる土蔵などは遠見せし事なく、柿の木、橘、きんかん、柚なども見かけず、人物言語も中国筋とは甚劣りし事にて、在中山分に入ては、草履わらじもはかずして、外より帰りても洗ふといふ事もなく、其儘床上にあがる事なり、食物にも米お喰ふ事なく、粟の飯お以て上食とし、寺院軍正にても、平生の喰事は粟にして、五節句などに米の飯お食す事なり、是等の事お以万事の風俗お察してしるべし、周防長門より、豊後日向大隅などへ商人の入来る所にて、此者ども族宿にて会せし時は、最早日本の地へ帰らんと互に戯れ笑ふと雲り、然れども花は芳野人は武士にて、城下々々は人物言語もいやしからず、中国筋に替りし事なきなり、在在へ入りては、何といはんやふもなき僻地多し、宇佐より頭城へ出るは南西とゆくなり、