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古事記伝

肥後、〈◯中略〉肥後風土記には、〈◯中略〉国人の対奏せる語は、此是火国八代郡火邑、但未審火由とありて、于時詔群臣曰、燎之火非俗火也、火国之由知所以然とあり、〈火邑は、和名抄に肥後国八代郡肥伊、是なるべし、〉是等お合て思ふに、火てふ名は、国にまれ邑にまれ、既く崇神天皇の御世に始りしなりけり、さて此も二国に分れたり、和名抄に、肥前、〈比乃美知乃久知〉肥後〈比乃美知乃之利〉とあり、わかれたるは何の時とも知れず、書紀神功巻に、火前国と見ゆ、後に火と雲ことお忌て、肥字には改しなるべし、〈和胴六年五月の詔に、諸国郡郷名著好字とあり、此時改まりしか、されど此記に既に肥字お書れば、彼より前に改まるか、但中巻に火君とあれば、本はこヽも火字なりけむお、後人の肥に改しにや、其例外にも見ゆ、上に筑紫島お有面四と雲て、肥国お其一に取れり、然るに国図お考るに、肥前と肥後とは海の隔りて地接かず、正しく二に分れたれば、面一つには取がたき国形なり、故考るに、右に引る書紀又風土記などの、火国の故事は、地名に依るに、皆肥後国の地なり、然れば肥国といひしは、初はたヾ肥後方のみにて、肥前の地は、本は筑紫国の内なりしが、やゝ後に肥国には属しにやあらむ、肥前は筑前筑後と地接きて、此三国は面一にも取つべき国形にて、肥後とは清く離れたればなり、されど此らは上代の事、さだかには弁へがたしたゞ試みに驚しおくのみなり、〉さて日向の域も、北方半国ばかりは、もとは此肥国の内なりけんお、〈肥後と日向とは、面一に取つべき地形なり、〉やヽ後に分れて一国にはなれるなり、