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比古婆衣
十五
火国名号景行天皇の御船火国に著たる故事 肥前肥後の本名お火国と雲る由縁は〈◯中略〉書紀景行天皇十八年の下に、〈◯中略〉此時に国名お定給へる由に記されたるは、謬伝に依られたるなり、〈◯中略〉始て国名お定給へる由にはあらず、〈知所以然、また知其爾由と書る文に意お著べし、〉其は前に崇神天皇の火国と号給へる事おば知食つれど、その事の由おばいまだよくも尋ね給はで、そのかみ火国と号給ひしは、如此る神火の事の由によりて号給ひつらむと、おりにあひてふとなほざりに詔ひたりしなるべし、さるお書紀に雲々、故名其国曰火国と記されたるは、そのかみその御なほざり言にすがりて、まがひたる謬説のありけるお正しあへずして、其説によられたるものなるべき事、上に挙て論らひたるごとく、崇神天皇の御世に国名お定給ひたると、景行天皇の火光お覧そなはして雲々と詔給へると、両度の差別、両国の風土記の伝相併に合ひて、いと明らかなり、〈◯中略〉 因に雲、肥前肥後とも一国なりし由、風土記に相共に記して、肥前なるは健緒組の古事おいへる文に連ねて、後分両国為前後といへり、肥後なるも然ありけむお、今本書世に伝はらざれば知られず、かくてその二国に分たれし事は、他書どもには見へず、さてその前後の国号の古く書に見へたるは、神功紀に火前国松浦県、推古紀に肥後国葦北津と記されたり、但しこは後の号お古にめぐらしていへる伝へによりて、書されたらむも知られねど、日本紀撰記されたる養老の頃より、はやく前後に分たれりし事は著し、