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日本地誌提要
七十肥後
沿革 古へ国府お飽田郡に置、〈今の古府中、在庁屋敷、及宮寺村等、其遺止なりと雲、〉延久二年、藤原則隆菊池郡お賜ひ、菊の城に居り、〈今深川村〉菊池氏と称す、則隆五世の孫隆直、平氏お援け州守に任ず、後五世武房、蒙古の兵お破り、其功お以て州守お襲ぐ、元弘中、其孫武時王事に死し、子武重州守に任じ、守護に補し、隈部城〈後隈府と称す〉に居る、足利尊氏の反する、西海諸州皆之に応ず、武重独り官軍に属し、征西将軍懐良親王〈後醍醐天皇第九子〉お迎て、之お高田(かうだ)〈八代郡〉に奉ず、正平中、武重の弟武光、少弐大友二氏お破り、豊前お略し、筑後肥前お併せ、日向に入り、西海九州殆んど官軍に属す、孫武朝に至り、屡足利氏の将今川貞世、大内義弘等と戦ふ、既にして官軍日に衰へ、諸州皆叛く、元中講和の後、武朝本州お領する故の如し、後八世武包に至て州人服せず、永正の末、武包出て肥前に奔る、州人大友義鑑の弟義武お迎て菊池氏お継がしむ、天文二十三年、大友義鎮義武お誘殺し、其地お併せ、赤星親家お隈府に置き、州内お鎮せしむ、初阿蘇大宮司惟澄官軍に属し、戦功あり、子孫阿蘇郡お領す、菊池氏の衰る、終に自立す、天正の末、州の豪族志お島津氏に通じ、地皆其攘奪する所となる、豊臣氏西征し、島津氏の侵地お収め、阿蘇氏の邑お没し、佐々成政お守護とし、隈本〈後熊本に改む〉に鎮す、尋て成政お誅し、加藤清正お熊本〈弐拾五万石〉に、小西行長お宇土〈弐拾万石〉に封ず、関原の役、清正東軍に属す、徳川氏行長の封お収めて之お清正に与へ、天草郡お寺沢広高に加賜す、〈子堅高の時削封せらる〉寛永九年、清正の子忠広、罪お獲て国除し、細川忠利代て封ぜられ、其弟立孝お宇土に分封す、忠利の子光尚、其弟利重に、新田三万五千石お分つ、又球摩郡に相良氏あり、建久中、相良長頼始て之お領し、人吉に居る、其七世の孫定頼、其子前頼、共に官軍に属す、玄孫為続に至り、菊池氏の衰に乗じ八代城お取る、其八世の孫長毎の時、豊臣徳川氏お歴て封邑故の如し、凡て四藩、王政革新、熊本支封お高瀬と称す、既にして皆廃して県となし、更に之お合併して八代熊本二県お置き、尋て八代お熊本に併せ、改めて白川と称す、