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肥陽軍記

肥後征伐之事 肥後国は、古より菊池殿領成しが、去ぬる永正二年、大友にほろぼされ、其後国主なくして年おへる、天文廿年、大友義鎮軍お出されける時、国中悉相随かふ、大友則伯父義武お国主にすへ、菊池と号しけるが、此度大友衰て、義武力お失ひたもちがたし、折お得て竜主先年より肥後お謀り給ふ、城、赤星、心お通しければ、多く御支配と成たり、今年政家公家種お召させられ、二万余騎にて肥後国お治給ふ、信生公軍事お司さどり、筑後の諸侍お催し、軍粧きらお尽し、兵威山野おうごかして肥後国へぞ向はれける、〈◯中略〉鳥津屋形義久も、耳川利の後、日向お取のみならす、豊後肥後おあはせんとせらる、此時肥後に来りて竜家と和平おとヽのへらるヽにいはく、肥前筑前筑後豊前の四け国切取の国なれば、竜造寺の御支配たるべし、大薩日の三州は申におよばず、大友おほろぼし、豊後迄は島津より領し申べし、肥後国おば両家より半国宛領し、九州の両大将とあふがれ候べしと、約諾畢て帰国す、即竜造寺家晴お南の関に置、肥後の御仕置等お定られ、政家公は御帰城有、諸人参り集り、五州平均の事お賀申す、 古士の説に、肥後国は高洲川限と御約束有しと雲々、