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川角太閤記

一上様、〈◯豊臣秀吉〉夫より御人数一万許りにて、加古島へ被成御座候、〈◯中略〉無程肥後国熊本へ被成御入、〈◯中略〉 一当国は、平和の者に被遣者ならば、一揆発すべき事必定なり、さらば佐々内蔵助お被召出、此国にはめ可被置なりと思召被付、其時内蔵助お被召出、ぬけめなしに一国内蔵助に被宛行候、 一揆の四人には、一万二三千石づヽ被遣候定、内蔵助人数方々へちり可申と御意候て、内蔵助被召出候間、右の内蔵助は抱置候者は、国大名には猶以可被寄返し候へとの御制札、九州京境迄御立被成候、〈◯中略〉 一各帰陣故、海上も静に御座候通被聞召届候、〈◯中略〉其年八月に、肥後に一揆蜂起仕候と被聞召付、浅野弾正、福島大夫、加藤左馬助、同虎之助、〈後には主計と申候〉森勘八、此衆中被仰付、はや討取被申、〈◯中略〉 一上方より御下し被成候衆中無残肥後へ御通り候、肥後国中仕置被成候内、其年たち申候、皆々肥後にて御越年に候、明れば天正十六年子の年、内蔵助罷上り候へとの上意にて、尼け崎迄被罷上、法華寺に居被申候、〈◯中略〉御意には、去年九州へ御馬お被出候、西国の分は、目出度被相治候処に、又肥後の一揆蜂起の義は、内蔵助仕置時分おはからはず、あらく申付候故、天下の騒ぎ仕出候、〈◯中略〉諸大名への自今以後見せしめの為との上意にて、内蔵助切腹被仰付候、 一肥後加藤主計殿へ、廿六万石熊本城共に拝領なり、宇土の城廻りにて十二万石、小西摂津守拝領也、扠残る衆中皆々被罷出候事、